日本のウイスキーの夜明け

今日7月14日はペリー上陸記念日。
いまから170年前の1853年7月14日、マシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊4隻が江戸湾の浦賀に来航し、久里浜海岸に上陸した。


「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれるほど江戸の街は大混乱に陥ったが、これがきっかけとなり250年近く続いた日本の鎖国政策に終止符が打たれた。





実はこの出来事は、いまや五大産地の一つに数えられる日本のウイスキー文化の形成に深く関係している。
これはウイスキーエキスパートとしては触れないわけにはいかない。
たまには酒屋らしいブログも書いてみたいと思う。




ウイスキーの起源については実ははっきりとはわかっていないが、”穀物を原料とする蒸留酒で大麦麦芽を使用する”という条件で考えると、1494年のスコットランド王室財務係の記録における「王命により修道士ジョン・コーに8ボルの麦芽を与えアクアヴィテを造らしむ…」という記述が、文献上最も古い記録だとされている。


アメリカ大陸においては、17~18世紀にかけて移民が増え、スコッチ・アイリッシュと呼ばれるアイルランドやスコットランドから入植した者たちがヴァージニア州やその周辺でライ麦、大麦などを原料にした蒸留酒造りを始めている。
イギリス王党派の一部は独立戦争期に現在のカナダ領へと移住し、そこで造られたのがカナディアンウイスキーの始まりと考えられている。
また、当時イギリスと敵対していたフランスのブルボン王朝は独立派の支援に回り、フランスに親しみを抱く人々がケンタッキー州でブルボン郡を成立させたが、ここで造られた蒸留酒がバーボンの由来になったと考えられている。


そんな西洋的な酒文化の象徴でもあったウイスキーが日本に伝えられたのは江戸時代末期の1853年のこと。
実はペリー提督の来航が、日本に初めてウイスキーがもたらされたタイミングであるとされている。
ペリーが日本に開国を迫るために来航してから、実際に久里浜でアメリカ大統領の親書が幕府側に手交されるまでの数日間、旗艦サスケハナ号の船上では日々交渉が繰り広げられた。
最終的に国書を久里浜で手交することで合意した7月12日の午後、交渉にあたった香川栄左衛門らに艦長室で西洋料理やワインとともにウイスキーが振る舞われたと記録されている。


それから月日が経ち、1923年に日本初のモルトウイスキー蒸留所である山崎蒸溜所の建設がはじまった。
つまり、今年はジャパニーズウイスキー生誕100周年の節目の年である。
ペリー来航がきっかけとなった日本のウイスキー文化もこの間に大きな発展を遂げ、いまや世界に誇れるジャパニーズウイスキーが数多く誕生している。
次の100年に向けてジャパニーズウイスキーの更なる発展を期待してやまない。


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