おはようございます。齊藤耕太です。
最近とみに、二十六才だという事を意識します。
あー、もう二十六才かぁ。二十六才ねぇ。二十六。などなど
何の自覚もないまま、二十四才の時に(株)なおかつに来て
なんと月日の早いことか、ようやく自分が二十六才、未熟者のままで甘えてられない歳だという事に気づき始めました。
精神年齢は十四才で止まったまま、などと思っていたのですが
いい加減そんな事も言っていられない二十六才。正直まだ二十四才ぐらいじゃないのかなー、と丸二年間ほど時間が飛んでいます。
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あれは、そんな時間が止まっていた二十四才 2009年 5月 国内総生産(GDP)は戦後最悪の落ち込みとなり、北朝鮮が地下核実験を行った頃
自宅警備をしていた私の身に、最後通牒がなされていました。
「6月中に新しいバイトを見つけなければ、会社に連れて行って昼夜逆転の生活を矯正する。」という内容です。
ピザ屋のバイトをやめて1年半ほど、「大丈夫、大丈夫。見つけるよ。」と言いつつ結局バイトは見つけられず
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7月3日、私は(株)なおかつに連れていかれました。
(ちなみに、幼稚園ぐらいの時から何度も父に連れられて(株)なおかつにはお邪魔してました。
十五才の秋に、早々と留年が決まり、一か月ほど? お邪魔させていただいた事もありました。
会長の奥さんにバイト代だよ、とお小遣いを頂いて大変嬉しかった記憶があります。)
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当時、北の方の配達のコースを担当していた父。
トラックに横乗りという形で、お邪魔させていただくことになりました。
父の横乗りは、わずか二日間で終了し、社長の提案で他の方たちの配達のコースの横乗りをさせて貰うことに
父以外の方と乗るのは、正直いやでした。
家族以外と喋る事もなかった一年半、楽な生活、人が苦手な自分。
耳が悪くて何を言っておられるのか理解できないし、気をつかわなければならないし
いったい何を喋ればいいんだろう?というか会話になるんだろうか?
結論から言うと、なんとかなりました。
いや、なんとかして下さったのか
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当時、山口修平さんの言葉が聞き取りづらく、喋りかけてくださると、たいへん緊張していました。
反対に石川路貴さんの言葉は聞き取りやすく、聞き間違えたことがないんじゃないか、と思うほど
当時は失礼な事に、ことあるごとに先輩たちの言うことに「えっ?」と聞き返してました。
今では、何でしょうか?もう一度お願いします。など、ちゃんと言えます。
一体何を書いてるんだと思われてるかもしれないんですが、(自分でも一体何を書いているんだろうと思ってます。)
それだけ、人間として、社会人として(当時は決して社会人だなんて思ってもいませんでした。)色々不足していました。
今でも、やはり欠けてる部分が多々あるんですが、当時よりかは、まだ良くなってるんじゃないかと。
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しかし今も当時と変わらず、耳が悪く
タムラをタンブラーと聞き間違えたり、3ケースをカンケースと聞き間違えたり、挙げたらきりがないほどです。
話の流れを読め、と言われるんですが、斜めな方向にすっ飛んで行きます。
話がそれました。
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すっとんきょうな事もたくさんあったでしょう。わけ分からん事もきっと喋ったでしょう。
それでも、当時あった全てのコースの横乗りが終わり、ホッとしました。また父と乗れるのかな、と思っていたのですが...
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7月24日 (会社にお邪魔させて頂く前は94㎏あった体重が86㎏になって少し喜んでいました。) なおかつの奥の部屋、社長の部屋に呼ばれました。
社長から、なおかつで働いてみないか、というお話でした。
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私は、働いたら負けだ。なんて阿呆な事も思っていたんですけど、将来の夢がどうのこうの、なんだかむにゃむにゃ眠たいこと言って
結局、社長が言って下さっているのだから、頑張るチャンスは今しかないんじゃないかと思い、「よろしくお願いします。」 と返事をしました。
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次回 (株)なおかつ見習い編~トレイニー齊藤耕太~ には続きません。
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以上のような事が、私が入社する事になった経緯になります。
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