京都市右京区嵯峨野に「さがの温泉 天山の湯」というスーパー銭湯がある。
ここの銭湯がとてもお気に入りで、週1回ほどのペースで通っている。
館内もキレイだし、温泉・サウナ・水風呂の温度設定も絶妙な加減になっている。
さらには食事処もなかなかの充実ぶりで、家からのアクセスも良く、価格設定も良心的と言うことなしの施設である。
昔から何か考え事があると湯船に浸かりながらあれこれと思いを巡らす習慣があって、そのせいか、拠点が移る度に自ずと「行きつけの銭湯」ができている。
例えば、地元兵庫県では尼崎の極楽湯。
京都で下宿を始めてからは、田中の東雲(しののめ)湯や吉田の平安湯、修学院の大黒湯など色々と巡ったけど、圧倒的に多く通ったのは「アベ政治を許さない!」の貼紙でお馴染の百万遍・東山湯。(思想に強く共感して通っていたわけではない)
社会人になってからは、宝塚の宝乃湯や川西の湯櫻、横浜の万葉倶楽部などを経て、天山の湯に行き着いた。
そんなことに思いを馳せていると、ふとあることが気になった。
学生時代はいわゆる町の銭湯(一般公衆浴場)にばかり行っていて、スーパー銭湯はイベント的に行くところだったけど、社会人になってからはスーパー銭湯が基本路線になっている。
銭湯は一般公衆浴場という名の通り、日常生活の一部として存在しているものであるのに対し、スーパー銭湯は娯楽施設としての要素が多く含まれる。
つまり、当時と今とでは「風呂に行く」ということの目的が若干異なっているらしい。
さらに、そういう背景があるため、当然料金も変わってくる。
学生時代に毎週のようにスーパー銭湯にいく金銭的余裕はなかったけれど、社会人になってからはそれも可能にはなっている。
なるほど、社会人になるということはそういうことなんだと気づかされた。
でも、町の銭湯にはおっちゃんもたくさんいる。(むしろ、おっちゃんの比率は高い)
きっとこの先に、町の銭湯の風情を感じられるフェーズが来るのだろう。
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