国産ウイスキーの生みの親 第2話

今日は、yagisan です

前回のお話の続きとしての第2話を、書かしていただきます。

古い樽に葡萄酒が残っていて、その葡萄酒を口に含んで飲んだ其れから

ヒントを得てウイスキー造りを手掛けるのであるが、早速蒸溜所を開設するために

最も適した土地を求めて、日本各地の水質や自然環境を検証した。

そんな中で浮かび上がってきたのが、京都郊外にある名水の地、山崎。

山崎は、北に天王山を背負い、対岸の男山をはさんで桂川、宇治川、木津川の

3つの河川が合流する土地だ。地形的に濃霧が発生しやすく、年間を通じて

湿度が高い。山崎の土地は、ウイスキーづくりには欠かせない、環境的要素が

揃った希有な土地だった。鳥井信治郎は山崎に日本初となるウイスキー蒸溜所を

開設し、ウイスキー事業を本格的に開始したが、莫大な費用と年月を要する

ウイスキーづくりは、必ずしも順風萬帆に進んだわけではない。

初めての試みに対して財界人や銀行も及び腰で、掛かるし資金の借り入れは

容易ではなかった。自分で調達するよりほか、策は見当たらない。そこで彼は

「赤玉ポートワイン」で得た利益と必死の多角経営によって、ウイスキー事業の

資金を捻出した。ウイスキーづくりの宿命ともいえる、長期的かつ膨大な資金投入の

末に、記念すべき国産第1号の本格ウイスキー「白札(のちのサントリーホワイト)」

が発売された。それは蒸溜所開設から実に6年後の1929年、鳥井信治郎が50歳を

迎えた年だった。

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